アリさんの日本での体験

(以下の体験談は東京入管第二庁舎で職員から暴行を受けた「アムジャディ暴行事件」で暴行を受けた2人のイラン人と、その他多数の日本で働いたことのあるイラン人から聞いた証言をもとに再構成しました。)

アリさんが日本に来たわけ

イラン。イスファハンのモスク

 アリさんはとても人懐こい笑顔のイラン人の男性です。彼が生れたのは、イランの首都テヘラン。イランは1979年のイラン革命でイスラム教の国となりました。アリさんがちょうど10才ぐらいのころです。革命の混乱。続く1980〜88年イラン・イラク戦争。アリさんは片足がありません。アリさんは思春期を戦場で過ごし、片足をその時失いました。

 さて私たちと遠い国の出来事が、じつは私たちに新たな出会いを引き起こしました。思春期を革命と戦争で過ごし、疲弊したイラン経済を背景に冒険心に富んだ若者たちが日本に流れてくるようになりました。日本に行くことがブームになり、みんなが日本に向かったのです。そして、90年91年、東京の代々木・原宿・上野公園などは、日曜日ごとに何千人というイラン人で賑わっていました。彼らは地方の町工場で、あるいは都市の建設現場で、あるいはあなたの町の食堂で働いていた人たちでした。

代々木公園などで露天商を営むイラン人
「東京キャバブの煙」西山毅(径書房)より

イラン人狩り

 92年のバブル経済の崩壊は、それまでの日本に在留する外国人の生活を一変させるターニングポイントとなりました。92〜93年ごろ、この代々木、原宿、上野公園を中心に大量の外国人の狩りこみが警察・入管の手で行われたのです。道行く人々を片端から拉致し、身柄拘束していきます。その場では逮捕状の提示も、パスポートのチェックもなされない。まさになりふりかまわない狩り込みでした。「違法な摘発であるが、43条の拡大解釈でやる。」と入管警備課の幹部は部下に檄を飛ばしたといいます。入管法43条には「入国警備官は、第24条(退去強制)各号の一つに明らかに該当する者が収容令書の発付をまっていては逃亡の虞があると信ずるにたりる相当の理由があるときは、収容令書の発付をまたずに、その者を収容することができる。」とあります。

原宿駅前、機動隊が出動してのイラン人狩り

 同様な外国人狩りは、一方ではマスコミを通じて「外国人犯罪者キャンペーン」を繰り広げ、全国各地の繁華街で、アパートなど住居で、外国人の働く町工場で行われていきました。国籍、性別を問わず大量の外国人が入管の収容施設に送りこまれました。

入管収容施設の中で

 東京入管第二庁舎にアリさんは収容されました。東京入管の収容場は収容された外国人であふれかえっていました。イラン、パキスタン、バングラディシュ、フィリピン、タイ、中国、インド・・・・被収容者の数は1990年に、それまでの34人から200人に急増しました。そしてアリさんが収容されていた1993年にはさらに450人に膨れ上がっています。アリさんが入れられていた居室は5メートル×6メートルぐらいで、そこになんと25人以上の被収容者が詰め込まれていたのです。

 風のとおらない閉鎖空間。与えられた毛布は何百人も洗濯せずに使われていたようなもので、この上なく臭い上に、髪の毛がいっぱいついていました。週1回使えるシャワーは薄汚く、壁にはカビが生えていました。帰国費用の工面できたものは、早々に祖国に送還されていきましたが、費用の工面できない者、パスポートなど、帰国に必要な書類が整わない者は、何ヶ月もこの部屋に収容され、帰国のめども示されないまま放置されました。食事は冷えていて、また質も悪くのどをとおりません。何をして過ごすわけでもありません。当時まだ居室にはテレビさえなかったのです。(東京入管第二庁舎の収容場の居室の中にテレビがすえつけられたのは、1995年以降です。)外に出て青空を見ることも、まして運動することもできません。1日中、鮨詰め状態の部屋の中で過ごす以外、やることがありません。被収容者の中には頭がおかしくなって、人の弁当の中に小便をかける者も出てきました。

騒動

 なぜ自分が収容されねばならないのか。ただオーバーステイだけっだったのに、まじめに日本で働いていただけなのに、なぜこんなところに身柄拘束されねばならないのか。いったいいつ国に帰れるのか。そして警備官(入管の職員)の被収容者に対する扱いのひどさ。まるで動物を見るような被収容者を見る彼らの眼。

 収容されていた人たちの不満はくすぶり、爆発します。大声を上げたり、壁や扉をたたいてその抗議の意思を表現します。このような騒動が、この時期(1993年ごろ)東京入管の第二庁舎の収容場の中で頻発していたようです。

1993年5月6日の事件

 第二庁舎に収容されていたあるイラン人男性が、職員から眼をひどく殴られました。それを知った多数の被収容者が、これに抗議して騒ぎ出し、大声をあげたり食べ物やゴミを警備官に投げつけたりして大騒ぎとなりました。入管側は、第二庁舎全警備官を集め、制圧にのりだしました。(このころの第二庁舎に勤めていた元警備官は「80人以上職員が集められた」と証言している)何人かのイラン人男性を房から引きずり出しました。そして後ろ手錠をかけると、通路を引きずるように連れて行きながら、頭、手、足、顔などに殴る蹴るの暴行を加えました。そして別室に連れて行き、そこでさらに執拗な暴行を加えました。後手錠をかけられ、もはや抵抗するすべも気力も失った者に、入管の職員らはなお殴る蹴るの制裁を加えつづけたのでした。アムジャディさんはこのとき背骨を骨折してしまいます。アリさんも含め数名のイラン人が首謀者として制裁を受けました。そして「隔離室」と呼ばれる狭い部屋に、パンツまで脱がされ、全裸にされて放り込まれたのです。

隔離室(スペシャルルーム)とは?

旧横浜入国者収容所の隔離室(写真:西山毅)

 入管には収容者からスペシャルルームと呼ばれ、おそれられている隔離室があります。隔離室とは刑務所などで保護房と呼ばれる部屋と同じような構造と目的を持った部屋です。自傷や自殺のおそれがあり、また他の収容者と雑居に置けない者で、24時間の監視が必要な者を入れておく部屋です。ひどく狭い部屋で、流しやトイレは埋め込まれていて、壁や床はでっぱったところが無いように作られています。もちろん自殺を防ぐためです。東京入管第二庁舎の場合、正面にガラス張りの看守職員がいる部屋があり、文字どおり24時間監視下に置かれています。部屋に埋め込まれたトイレや流しは、自分で水を流すことはできません。用をたしたら看守に合図をして、外からコックをひねって水を流してもらいます。本来は懲罰目的で使う部屋ではないのですが、実際には懲罰を目的として利用されることが少なくありません。

手錠でつる下げられる

隔離室の外側。トイレの水は外から職員が流す。
(写真:西山毅)

 さてアリさんたち3人は激しい暴行を受けた後、全裸に手錠をされてた状態で同じ隔離室にいっしょに放り込まれました。そのうちの一人アムジャディさんは特に暴行による傷がひどく、顔は腫れ上がり、鼻はつぶれ、腰をひどく打って身動きできない状態でした。アムジャディさんはこのとき腰椎を骨折していることが後にわかります。

 アリさんはアムジャディさんの様子を見て、入管の職員に、手当てをするように、医者に連れて行くようにと訴えます。しかし職員はそれに応じません。業を煮やしたアリさんはさらに執拗に抗議を続けます。職員はアリさんの訴えに耳をかすどころか、騒ぎ立てるアリさんを再び引きずり出し、さらに暴行を加え、ついに鉄格子に手錠でつる下げてしまいました。

目撃者がいた!

 この一部始終を目撃していた人がいました。当時東京入管に警備官として勤めていたAさんは、このときの様子を「密室の人権侵害」(現代人文社)という本のなかで次のように記しています。「(騒動の後)とくに暴れていた者5〜6人は、隔離室に入れられていたのを何日か後に確認している。彼らは手錠をされたまま長期間にわたって隔離室に入れられていた。…中略・…彼らの中には額から血を流している者や、鼻が紫色に腫れ上がっている人もいた。さらにその後、片足のイラン人が隔離室の鉄格子に手錠でつるされているのを見た。」(詳しくは、「元入管職員の証言」のページを見てください。)

今も続く裁判

 このアムジャディさんやアリさんたちに加えられた限度をはるかに越えた暴行について、入管側は「正当な制圧行為」だったとして、職員の暴行の事実を認めず、1999年の現在にいたってもなお、民事、国家賠償請求訴訟で争われています

(この事件は「お知らせのページ」裁判を傍聴しよう!・・のアムジャデイ事件です。)


入管収容施設問題を考える、アリさんとジェインさんのホームページ

検索エンジンで直接このページにいらした方へ親ページに移動

サイトトップへ