神戸〜
湊川・新開地・福原
湊川公園と新開地

明治の初めごろの湊川公園付近には湊川が流れていた。
川べりはうっそうと茂る森林地帯で、
当時の居留地に住んでいた外国人達が
鉄砲をかついで狩猟に来るほどであった。

湊川はいわゆる天井川で川底が高く、
神戸の街が発達し交通が盛んになるにつれ交通上の妨げとなってきており、
明治29年8月の大水害を機会に湊川の水路架け替え工事が急速に進められ、
明治34年に新湊川が完成した。
旧湊川の川筋を湊川改修株式会社が埋め立て、
神戸市はそのー部を買い取って明治44年11月に湊川公園として一般に開放した。
川筋を埋めるとき新橋(衆楽館跡付近)から上流は高さ6メートルの堤防と同じ高さに埋めたため、
もとの川底の下にトンネルが設けられて「湊川トンネル」として親しまれている。
以前はトンネルのなかを市電が走っていた。
埋め立てられた川筋の湊川公園から下流の方は新開地といわれ、 盛り場として発展してきた。
この新開地は土地が広く兵庫の津の近くで、娯楽場の建築や人の集まりにも便利であり、
相生町にあった相生座が明治39年に移ってきてからは、
次々と劇場・寄席・小屋掛芝居などが軒をつらねるようになった。
 
大正2年頃から、活動写真(映画)が盛ん となり、
東京帝国劇場を模した衆楽館が建てられたのをはじめ、
大正6年には新開地の上手に松竹系の中央劇場(後松竹座)ができ、
衆楽館と湊川神社前の日本劇場(後八千代座)とは共に大劇場を誇っていた。
昭和に入ってからは映画の全盛時代を迎えた。
新開地も大和座のような浪花節の専門館など2・3を除いては、
ほとんど映画館に占められ、劇場が24、百貨店が6つという日本有数の歓楽街で、
その華やかさは東の浅草、西の新開地とまで呼ばれたほどでした。
戦前までは神戸第1の盛り場となっていた。
昭和20年3月の神戸大空襲で新開地 とその周辺も焼け野原となった。
戦後新開地の東側一帯の焼け跡には米軍のウエスト・キャンプ ができ、
その接収解除が遅れたことや、映画館・劇場などの娯楽施設が三宮付近に多くできたこと、
また、新開地周辺にあった神戸市役所や新聞社などが三宮へ移転した事などにより、
繁華街の中心は次第に三宮方面に移っていき、 昔日の面影は失われている。