詩と惑星 傑作選/ゲスト編



飯田華子 第9回ゲスト 

2006年より自作の段ボール紙芝居でライブ活動を始める。
ライブハウス、立ち飲み屋、SMショウの幕間、児童館のお楽しみ会などに出演。
大人向けのセクシーな紙芝居から子ども向けの紙芝居まで50本以上。
現在は紙芝居の他に、映像や漫画なども制作。
ホームページhttp://iidahanako.jimdo.com



「美貌と子どもと地獄とマンカスについて」 飯田華子


熱いシャワーを頭から浴びて、性器のひだに指を這わせる。

大陰唇と小陰唇のあいだをやさしく擦ると、ポロポロと恥垢が剥がれ落ちた。

昨日は朝から働き詰めで、夜は女子会でしこたま飲み、そのまま化粧も落とさず寝てしまったから、こってりとマンカスが溜まっている。

指先を嗅ぐと、膣の分泌液とアルコールが饐えた臭いがした。

生ゴミのような悪臭。

あたしだけの悪臭。

どこか安らぐ悪臭。


…というわけで、ミキさんから「赤裸々に書いてみないか」とお誘い頂き、マンカスのような文章を書いてみることにしました。

普段、「こんなこと言ったら嫌われちゃうかも」と思って心にしまっていることを書き出したいと思います。





一、恋と美貌について


たいして美人でもない女が男をディスってるとムカつく。

「全然好みじゃない男に告られた」とか「ホテル代割り勘ってありえなくない?」とか、目の前で鼻の穴を膨らませて喋る女は、せいぜい私と同程度か、あるいはなんなら私のほうが上かもと思えるような容姿だ。

だから私はことさら卑屈に、「いやぁ、そんなに男の人と色々あっていいですねぇ。私なんててんでモテなくて。今までご飯を奢ってくれた男なんて父親くらいですよ。」と自分をこき下ろす。

それは私なりの反撃で、この女に、「やだ、あたしったらブスのくせに調子乗ってモテ自慢しちゃったわ。あたしよりちょっと可愛い飯田さんがこんなに謙虚なのに。バカバカ!恥ずかしい!」と思わしめるための作戦なのだった。

しかし女は「アハハ☆」と笑ってご満悦。

違うでしょ、そこは。

「あたしは勘違い女でした」で土下座でしょ。

え、もしかしてこいつ、私よりも自分の方が可愛いと思ってるの?

じゃあ何、私はあんたにとって、「魅力的なあたしのちょっと面白い友人」みたいな感じ?

私は太鼓持ち?

あーあ、こんな身の程知らずのバカ女につきあってやってる私を、誰か素敵な人が見てないかなぁ。

だってどう見たってこれ、私のほうが顔も頭もいいでしょ。

あ、あのイケメンの店員さんでもいいや、私にだけ特別サービスして、こいつにはぞんざいな対応してくれたら、いくら鈍いこの女でも、私との格の違いに気づいて己を恥じるだろうに。

…なんて思いながら時計を眺める、金曜23時の江古田の居酒屋。

私も女も、同じ穴の狢なのだった。


それにしても、なぜ私はかくも憤るのか。

うらやましいからである。

私だって本当はそんなセリフが言いたい。

いや、たまに気が緩むと言っている。

「銀座のぉ、お寿司屋さん連れてってくれてぇ、まぁ白子とか超おいしかったんだけどぉ、そのあとホテル誘われそうだったからぁ、『ごちそうさまでした』って言って帰ってきちゃった☆」なんてセリフを吐くと、まるで自分は男たちに渇望されながらその魅力をほんの一切れだけしか分け与えない、でもそのほんの一切れだけでも男たちは狂喜するような、そんな値打ちのある女になった気がして、束の間、陶酔できるのだ。

現実は三段腹の三十路フリーターでも。


恋愛は美男美女にだけ許された特権だと思う。

だから普通の外見の人は、「すいませんすいません」と思いながら恋愛をしなければいけないと思う。

しかし前述の女は、己の外見もわきまえず、さも自分にとって恋愛は当然の権利であるかのごとく堂々と享受し、ひけらかしていた。

その恥知らずっぷりが腹立たしく、だがこうして自分の欲望に素直になれたらさぞ気持ちよかろうと思うとうらやましくて、私の心は千々に乱れるのだった。


私は「恋愛」を漫画やドラマで学んだ。

おそらく、多くの人がそうなのではないか。

「恋」なんて感情が、「お腹が空いた」や「眠い」と同じようにあらかじめ備わっているとは思えない。

「クリトリスを擦ったらなんか変な感じ」と「恋」とが結びつくのは本能ではなく、漫画やテレビなどによる文化だと思う。

そして、漫画やテレビドラマの登場人物は皆、美男美女であった。

たとえキャラ的には「平凡な女の子」や「冴えない男の子」であろうと、漫画に描かれているビジュアルは、ドラマを演じている女優男優は、必ず整った顔をしていた。

だから恋愛のイメージはどうしても、「整った顔の人たちがやること」な気がしてしまう。

それで、普通の容貌のカップルを見かけると、「ああこの人たちは脳内では上戸彩とか松田龍平なんだろうなぁ、実際は狸が化けたような女と『村人A』って感じの男だけど」と思ってしまう。

というか、私がそうなのだ。

恋をするとテンションがブチ上がり、自分の脳内ビジュアルが一気に美化される。

だってだって、男性が私に勃起してくれるんですよ!しかもただやりたいだけじゃなくて、セックスのあとも離れがたそうにしてくれるんですよ!次の土曜は映画を観に行く約束しましたよ!それって恋愛ドラマの主人公にしか起こらないやつじゃん!なのに今私の身の上に起こっている!

ってことは、私って結構イケてるんじゃない?!

こうして私は暴走する。

ーほら、さっき電車降りるときも知らないサラリーマンと目が合った。きっと私が魅力的なせいね。見て!ショウウインドウに映る姿!えっ、やだっ、可愛い!!あーもうダメ!街が輝いてまぶしい!もうっ!ルミネでお買い物しちゃうんだから!ワンピースとミュールも買っちゃう!

…まぁ、ここまでブチ上がる人はいないかもしれないが、しかし多かれ少なかれ、恋の始まりは誰でもウキウキするものではないだろうか。

そして己の容姿に対する客観性を失うのだ。


人に好かれるとは、自分が認められるということである。

ふだん認められることが少ない人間は、「好き」というその一言で、パアッと世界に光が差し込むような気持ちになる。

人は自分で自分を認めるのが難しい。

必ず誰か他人を求めてしまう。

他人から「あなたは価値のある人間だ」と承認されなくては気が狂いそうになる。

しかし、仕事や自分の能力などで認められるのは並大抵のことではない。

一番手っ取り早く承認感を得られるのは恋愛である。

厳密にいえば、恋愛の成就もやはり並大抵なことではなく、自分の好きな人が自分を好きになるなんてほとんど奇跡なのだが、そんなに志の高い人間なんてそうはいない。

普通は「好きになってくれる人」もしくは「好きになってくれそうな人」を好きになる、つまり、自分が恋愛できるレベルの相手で妥協する。

特に日頃モテない生活をしていると、性的対象として見てもらえただけでも嬉しくなってその気になっちゃう傾向がある。少なくとも私はある。

で、人から性的対象として見られる可能性は、自分の仕事や能力を認められる可能性よりも、まだ少しは高いのではないか。

…なんて思うのは、私が、仕事ができなくて無能で、しかも女だからかもしれないけれど。

「仕事では認められてるけど女としては見られない!」とか言うようなキャリア女性と違い、私はバイト生活7年のフリーター、仕事や能力で認められる可能性なんてほとんどない。

それに、女のほうが男よりもまだ性的商品としての市場は大きいと思う。

そういう意味で、「手っ取り早く承認感を得られるのは恋愛」と書きました。

とはいえ、いくら仕事や能力が認められるよりもハードルが低いとはいえ、前述の通り、私は性的対象にされるだけで喜んじゃうくらいであるから、ふだん体を求められることもそんなに多くはない。

ましてや、その求めて下さった相手がこちらにとっても「いいじゃん☆」と思えるような人であること、またその人が、一発限りのセックスではなく、今後もこちらと関係を持ちたいと思ってくれることは、やはりそう高い頻度で起こらない。

だもんで、たまーに珍しくそういうことがあると、私はブチ上がっちゃうわけです。

ダイエットのリバウンドで過食するように、日頃の鬱屈の仇を取るように。

いやいや恋愛なんてとてもとても、私は自分をわきまえていますから、という顔をしながら、本当は心の底でいつもヒロイン願望をくすぶらせていた。

だから今の状況はなんだかおかしいと思っていた、不本意だと思っていた、なぜ皆私をちやほやしないのだろうと不思議な気がしていた。

そんなところに「好きだ」と言ってくれる男が登場したらどうだろう。

「待ってました!」とばかりに自己愛が炸裂するではないか。

彼の言葉を錦の御旗に、「やっぱそうだよね!?『勘違い』とか言われるのが怖くて謙虚なフリしてたけど、私って結構可愛いよね!?そう思っていいんだよね!?」と押さえつけていたナルシシズムのダムが決壊して溢れ出す。


…で、冒頭の江古田の居酒屋の女も、きっとそうなっちゃってるんだろうなぁと思うのだ。

モテない奴ほどちょっとなんかあると天井知らずに調子に乗るものである。

「自分はあんまり優れた容姿ではない」という客観性を不本意ながらも持ち合わせているからこそ、「でも本当はちょっとイケてるのかも?!」っていう可能性に賭けたくなってしまう。

しかしそれはやはり幻想だから、少しでも冷静になったら崩れるから、ガラスの靴が脱げないように、ハイテンションでモテ女妄想を維持するしかなくなるのだ。

我に返ればブチ上がった分だけ苦い絶望が待っている。

そう思うと、同病相憐むという気持ちにもなるものだが、この世にはまた、同族嫌悪という言葉もあり、私の腹はやはり激しく煮え立ってしまうのだった。








二、結婚と子どもについて


私は今年で三十歳になる。

高校の友達のほとんどが結婚し、子どもを生んでいる。

同年代の独身女性と会えば、たいがい皆「結婚したい」と言う。

「いや結婚はしなくても子どもだけは絶対欲しい」という。

だから私が「結婚願望もないし子どももそこまで欲しくない」と言うと不思議がられる。

私としては皆のほうが不思議だ。


…なんつって。

実は私は、「結婚も子どももいらない」と言うとき、少し得意な気持ちなのだ。

平凡で世俗的な欲望からかけ離れた、アーティスティックで高等遊民な自分をアピールできるからである

同時に、「子ども欲しい〜!」などと言う女たちに対して、「あんたたち子育てに過剰なドリーム持ってんじゃないの?」と言外に喧嘩を売っているつもりもある。
だって子どもを生むだけならまだしも、生んだ後は最低18年くらい育てなきゃいけないんですよ?

今まで自分のことだけを考え、自分のペースだけで生きてきたというのに、まったくこちらの意のままにならない生き物を、社会的な「人間」になるまでに18年もかけて育成するなんて!

私はすぐ人のせいにする人間だから、子どもなど生んでは、「お前がいるせいで●●できなかった!」と恨み言を繰り出すのは必至である。

生む前から悪いことばかり想像しても仕方ないが、生んでしまっては取り返しがつかないではないか。

もちろん、育児を通して人間的に成長することはあるだろう。

でも、「子ども欲しい〜!!」という女たちを見ていると、どうしてそんなに能天気に望めるのだろうと思ってしまう。

みんな多かれ少なかれ、自分が主役の人生を生きてきたはずである。

「もう自分のことばっかり考えるのに飽きちゃった」なんて言ったって、主役意識というのはなかなか抜けないものではないだろうか。

母親になって、否応なく子ども中心の生活になって、「こんなはずじゃなかった!全然自分のことができない!」とかいうのはよく聞く話じゃん?

そんでママモデルを気取って子どもにオシャレな格好させたり有名私立通わせたりして、子どもを自分の素敵なアクセサリーにして強引に主役意識を満足させちゃうママとかもいるじゃん?

しかもオシャレな洋服も有名私立も自分のためなのに「子どものためを思って」とかって自己欺瞞したりするじゃん?

あるいはそんなに財力のないママの場合は、ほっこりした家族の食卓とかをFaceBookに載せて幸せアピールするじゃん?

で独身で頑張ってる同級生の「海外出張〜☆」とかの写真見て「頑張ってるわね〜。でもなんか痛々しいわ」とか言ってほくそ笑んだりするじゃん?

本当はバリバリやってる友人が羨ましくて、自分は閉ざされた社会に置き去りにされたような気がするのに、そんな自分の気持ちに気づいてしまったら辛くて仕方ないから、劣等感を「幸せな家庭を築いている私」という優越感に置き換えて、めっちゃハイクオリティなキャラ弁作りに没頭して、で、また写真をFaceBookに載せたりするじゃん?

それは陰惨な戦いじゃん?

だからね、自己顕示欲の強い人間は、嫁ごうと生もうと幸せになんかなれないって思ってたほうがいいと思うの。

もちろん、結婚して子どもを生めばすべてがうまくいくなんて思ってはいないだろうけれど、自分一人の人生に手詰まり感が出てきたからそっちに逃げ込もうとしてんじゃないの?とついつい疑ってしまう。


というか、こんなことを思うのは、私が結婚や出産を「逃げ道」としてたまに夢想するからだろう。

初めて思ったのは大学四年の卒論を書いているときで、「あ?、ここでイッパツ妊娠でもしたらこのキツい論文作業から解放されるのにな?」という妄想がふと浮かんだ。

その後、会社を辞めるときやイベントがうまくいかないときなど、折々にこの妄想はチラつく。

私にとって「結婚&出産育児」は、自己責任を放棄できる「便利な言い訳」なのだ。

こんなこと言うと、真剣に子どもを育てているお母さんたちからは非難を浴びるだろう

「逃げ道」というには育児はあまりに過酷だし、責任だって重大である。

私も育児をしている友人に「逃げやがって」とは思わない。

が、こと自分に関していえば、だ。

もし今自分が妊娠して結婚したならば、「誰にも突っ込めない言い訳で現状からインスタントに逃げやがって」という自己嫌悪から逃れられない。
家庭を持つ前に、自分一人の力で進み、そして負うべき火傷をちゃんと負わねばならないと、半ば強迫的に思っている。

それは私の祖母の影響かもしれない。

私の祖母は日活の女優を目指していたがオーディションに行くまでは自信が持てず、結局見合い結婚して子どもを生んだ。

それなりに裕福だったし、端から見れば幸せな主婦であったが、本人はいつまでも不満をくすぶらせていた。

オーディションに行けば女優になれたかは分からない。

しかし、オーディションに落ちたとしても、もっと女優修行をしていたら、とことんまで夢を追って、最終的には叶わなくても「私はやったぞ」という実感を持てたなら、また違ったのではないかと思う。

何かを成し遂げた実感もなく、とことん社会で傷ついたこともないまま家庭を持っても、「もしこの子がいなかったら…」というタラレバ思考に縛られ続ける気がする。

いつまでたっても不満は尽きず、「誰かと比べて私は勝っている」という優越意識でしか自分を支えられない気がする。

今のままでは私はそんな母親になる。

そんな私の子どもは気の毒だと思う。

だから、自戒の意味も込めて、「結婚も子どももいらない」と言っているフシもあるのだ。

そしてそれは、私と同様本当はめちゃめちゃ自己顕示欲が強いくせにそれをうまく満たせないもんだから家庭という新たなステージに逃げ込もうとしている独身女性たちへの遠回しな警鐘でもある。

…ってそれは大きなお世話か。失礼しました。

家庭を望む人には、たぶん私には分からない色々な事情があるのだろう。

誰も彼もが結婚や出産を逃げ込む口実にしているわけではないし、よしんば逃げ込む口実だったとしても、子どもの存在は何ものにも代え難い幸せを運んでくれるかもしれない。
だいたい、「何かを達成した人じゃなきゃ親になっちゃいけない」なんて言ったら子どもなんてそうそう生まれないではないか。

しかし、今の私は望まない。望めないのだ。

たぶん、自分の人生に過剰な期待を寄せているのだろう。

みんな地に足つけて平凡な人生にそれなりの幸せを見いだしているというのに、私は自分が平凡な人間だとはどうしても認められず、劇的な人生でなけりゃ生きた気がしないと30歳になってもまだ足掻いている。

そうして、いまだドラマを迎えないこの人生を肯定できず、子どもを生むのをためらっている。

今私が子どもを生むことは、結局何にもなれなかった自分を認めることになる気がして。


とはいえ、母となって花開くドラマもありましょう。

子どもとセットで自分の人生を切り開く強者もたくさんいます。超尊敬してます。

あと何年かしたら私も、今の自分にはまったく想像できなかった境地になって、母親業を頑張るかもしれません。

それと、育児してる友達に対して応援したい気持ちはすごくあるんだけど、いったい何をすれば助けになるのか、子なし独身の私には分からないので、それが歯がゆいな?とか思ってるので、そういう意味では子ども欲しいなと思います。

出産のとんでもない痛さも経験してみたいし。

なんにせよ、相手がいればの話ですが。





三、アングラ表現地獄について


五年以上前、私は酒場のホステスをしていた。

そこにやってくる酔っぱらいたちからは、「俺を尊重しろ」というメッセージをいつもビンビン感じていた。

たいがいの人たちは、自分が望むほど尊重されていなくて不本意なようだった。

私のほうな包容力のカケラもないホステスに、「俺はこんなにすごいんだ」「なのにこのすごさは理解されていないんだ」というような話をして、束の間でも安らぎを得たのか、あるいはもっと惨めな気持ちになって帰って行ったのか。

あーいやだいやだ、おっさんっていやよねぇ、なんて思いながら、いずれ自分もこんなおばさんになるような気がして背筋が寒かった


表現活動の世界は、こうした「不本意感」の吹き溜まりである。

私は自作の紙芝居でライブ活動をしており、よくライブハウスなどで音楽バンドの合間に出演させて頂いている

私なんかが出るようなハコはたいがい小さいし、出ているミュージシャンもたいがい売れていない。

売れないミュージシャンで30歳過ぎともなると、色々くすぶらせている。

インディーズ界でちょっと売れたバンドがあれば、「なんであんな奴らが売れるんだろうね」と陰口を叩き、「いい曲作ってれば売れるってわけじゃないんだよ、営業力でしょ」などと、まるで自分にはすごく才能があるのに営業力がないせいで売れてないような言い方をする。

しかもいやらしいのは、「やっぱアーティストだから営業とかそういう下世話なことってどうしても苦手なんですよね」みたいな繊細ぶりっこを言外に滲ませているところだ。

「営業とかそういう下世話なこと」がどれだけ大変なことか分かっているのか。

音楽作るのだってそりゃ大変なことだし特殊な能力であろう、しかしそれをいうならば営業だって特殊な能力である。

だいたいその売れたインディーズバンドだって、営業が得意だったわけではないかもしれないではないか。

恥ずかしくてたまらない気持ちを押し込めて「この曲を聞いてください」と売り込んでいったのかもしれない。

あえて恥を買って出る覚悟に敬意こそ払え、何もしないで安全な場所に身を置く奴にせせら笑う権利などない。(まぁ、権利がなくてもせせら笑ったっていいんだけどね)

売れたくないなら別になんだっていいのだが、そうやって陰口を叩くってことはギョーカイ的なものに色気があるってことでしょう?

なら、「だけど売れるための下世話な努力がどうしてもできない繊細なボク」ってところにオトすのは自己欺瞞だと思う。

あと「クリエイターとしての誇りを捨てれば売れセンの曲なんていくらでも作れる」とかいったこともよく聞くけれど、じゃあ一曲くらい誇りを捨てて作って売れてみてくださいよ、と思う。

あるいは売れセンと自分のしたいことのギリギリのせめぎ合いに挑戦し続けてくださいよ、と。

残念ながら今のこの世界はあなたの美意識が通用しない、だけどその美意識をどうにか通用させたいならば、まずはこの世界の価値観に乗っかってみるのも一興ではないか。

そんなことをするぐらいなら売れなくてもいい、好きな音楽をただ作り続けていたい、というならば、それはそれで気高い覚悟だろう。

でも、まだ売れることに色気があるんでしょう?


…て、これ全部私のことなんですけども。

「飯田さんは売れたいとか思わないの?」とか「人を妬むことはないの?」と時々聞かれるので、よほど私のカマトトぶりは板についていたのだろう、だからできればあんまり腹の内をさらけ出したくなかったが、(だってそしたら「売れたいと思ってるのに売れていない惨めな人」ってことがバレちゃうじゃん?)でも、これは赤裸々なマンカスエッセイなので、ちゃんと本音を書きます。


私は売れたかったのです。

紙芝居しか人に見せたことはないけれど、漫画も小説もエッセイも映画も作れるから、そういうことで暮らせればいいなぁと思っていたのです。

でも、営業とかそういうの苦手だったんです。

しかも怠惰ゆえにちゃんとした形の作品集も作っておらず、これでは私が何ができる人なのか誰も分からない。

だけど私の才能をもってすれば、自分から売り込んだりしなくとも徐々に噂が広がって、「あなたは素晴らしい、ぜひうちで仕事をしてください」ってテレビ局や出版社から次々に依頼が舞い込むはずだと思っていたのです。

いったいなんの夢を見ていたのでしょうか。

脳みそがお花畑だったようです。

しかも結構最近まで。


どうもみんな私の才能に気づかないようだから漫画を描きましょう、そして持ち込んで出版社の方をびっくりさせちゃいましょう☆と思って、最近本格的に漫画を描いたらすごく難しかった。

Gペンでなぞった絵はとても下手だった。

こりゃ売れないよ、と思った。

なんの技術もないくせに過剰に自信を持っていたのだと気づいた。

恥ずかしい。


技術のなさは絵だけではなく、パフォーマンスについても思うことだ。

活動を始めて八年、色々な方からアドバイスを頂いた。

演劇関係の方からは、「もっとお客さんのことを考えろ」「ブツブツつぶやくのではなくハッキリ朗読しろ」「MCをしろ」といったことを言われた。

当時はカチンときて、「このお客さんを置いてきぼりにしてくような感じはわざとやってるし、このハキハキしない朗読スタイルもわざとやってるし、MCとかそういう余計な媚びはわざと売らないんだし、ていうか、は?そういうベタベタなことがエンターテイメントだと思い込んでるからあんたの芝居はクソダサくてつまんねぇんだよ!」などと思い(小心者なので口には出さず)、言われた逆をやっていた。

また、友人知人の幾人かからは、「もっと分かりやすい話を作ったら?」と言われた。

当時はやはりカチンときて、「分かりやすい話なんかテレビでも漫画でもいくらでもあるじゃん、あえてこうやってるんだけど、ていうかこの話をやるには最大限分かりやすくしたつもりなんですけど?それが分からないってことはあんたの知能レベルがチンパンジーなんだよ!」などと思い(小心者なので口には出さず)、やはり言われた逆をやっていた。

しかしそれから数年後、寿町のドヤ街でおっさん相手に紙芝居をして、それまで私が「いい」と思っていたパフォーマンス方法も物語もまったく通用せず、まぁそりゃ通用しないだろうとは思っていたが、ではどうすれば通用するか、その方法が分からない自分に気づいた。

「あえて分かりにくくしている」のならば、その基本には「分かりやすくできる」ということが前提条件だったんですよね。

私はちっとも「分かりやすい」ことができないくせに「あえて分かりにくくやってるんです」なんて格好つけていたのだ。

皆さんのアドバイスをようやく実感したときだった。

だから、さっきミュージシャンの例に出した「誇りを捨てたら売れセンの曲なんていくらでも作れる」みたいな話を聞くと「ほんとにぃ?」と思ってしまう。

売れセンの、手垢のついたコテコテのエンターテイメントを作るって、相当難しいことなんじゃないかと思う。

ものすごく技術が必要なことだと思う。


アングラの世界は、技術がないことも許されるところだ。

いわゆる商品価値からは解放された世界である。

それは自由な表現ができる素晴らしい世界だと思う。

けれど、この何もかも許される世界に、自意識過剰な「アーティスト」たちがひしめいて、それぞれがくどい自己アピールをしていると考えるとゾッとしませんか?


自意識過剰な人間は傷つきやすい人間でもある。

自分に才能がないかもしれないという不安と日々戦いながら、その不安を直視することを巧妙に避けつづける。

「お金じゃない」「技術じゃない」という優しいアングラの価値観は、自分がいったいいくらの値打ちなのかという疑問を煙に巻き、「アーティスト」としての自意識を補填してくれる。

だから売れないアーティストたちはいつも、自分が思うほど世間で尊重されていないという不本意な気持ちを抱えながら、このモラトリアムのぬるま湯にいる。

私も八年もいる。

もう、いいかげん傷つきたい。


今も昔も、「あんたは一体どうなりたいの?」とよく言われる。

「なるようになりたい」という気持ちと、「なんとかしなければ」という気持ちがある。

このまま定職につかずどんどん年老いていって、東京ではもう食い詰めて、地方の酒場を転々としながら紙芝居を作り続ける謎のババアになる、という未来図を夢想したりする。

それはそれでお花畑な妄想だと思う。

「恋と美貌について」で私は、「今の状況はなんだかおかしいと思っていた、不本意だと思っていた、なぜ皆私をちやほやしないのだろうと不思議な気がしていた。」と書いた。

「結婚と子どもについて」では「今私が子どもを生むことは、結局何にもなれなかった自分を認めることになる」と書いた。

この凶暴な自己顕示欲を満たすための努力もせず、そして叶わずに心から傷つくこともなく、このままぼんやりと老いていったら、私はずっと不本意な気持ちから逃れられない。

どのみち酒場を転々とすることになっても、それすら雇われず浮浪者になって野垂れ死んでも、諦めがつくまで努力してやり切れたなら、少しはマシだと思う。

モテ自慢をする女より、「子ども欲しい〜」と能天気に言う女より、不満をくすぶらせるミュージシャンより、最も憎むべきは己自身の臆病さと怠惰さである。


…なんつって。

こんなご立派なことを言いつつ、朝になってしまったので今から風呂に入ってビールを飲んで寝ます

二日ぶりに体を洗うから、マンカスはさぞボロボロと落ちるだろう。

自信がなくても怠惰でも、自分は特別な人間だという自惚れが許されるアングラの世界で、るま湯のような地獄のただ中に私はいる。

FIN.











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イチカワナツコ 
大阪・女

http://natsuco-i.jugem.jp/




「使用済みは、用済み」 イチカワナツコ 
 第三回ゲスト



心のままに生きることは
この世界でできるどんなことよりも、気持ちいい
どんな口づけよりも
どんな変態プレイよりも
どんな夕焼けよりも
どんな手紙よりも



今日は行けなかった
お気に入りの場所
夕方の一時間半はお別れに使った
おしっこに行きたいのも我慢した
時間は時々、そうやって使わねばならない

キミと会うたびに思うよ
ありとあらゆることにおいてだ
確実でいて、汚くて、純粋で、不器用で、しっちゃかめっちゃかで、くりくり
今日も、ことばにできない想いがあったね
気付いてたよ
だからこそ分かるよ
(電話の向こうで)
しなくていいよ、ことばになんか
どうせ泣けるだけ
(どうせ夕陽の写真送ってくるんやろ)
(そうだよ)

新しいことばが、ほしい
誰も使ったことのない
それを埋めたい

今日も寝不足だ
することはあるし、ジョジョも読まなければならない
今も、おしっこに行きたいのを我慢している
時間は時々、そうやって使わねばならない
そんなチープなことより
ことばのプールに溺れていたい
浮きも沈みもしたくない
まだ、ここにいたい
すきだから、しょうがない

恐れはいらない
嘘もいらない
介護もいらない
予備もいらない
降ることもいらない
名前もいらない
ほしいのは、いま、その、ことば
そのままの、ことば



新しいことばが、ほしい
それできみに傷をつけたい
ばんそうこ貼ったら隠れる程度の
甘いやつ
今日は、そんな気分






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